陳述書(甲27号証)

最後に提出するのが陳述書です。

陳述書には自分の感じたことを正直に記載しました。

プライバシーにかかわる部分は改変しました。

目次

1 中学時代の経緯

 私は昭和63年4月に松戸市立A中学に入学しました。

被告と初めて会ったのは、入学式の1週間前に私が新入生代表として誓いの言葉の練習をしに行った時でした。

 被告は中学時代当時を振り返り、私は本当はM氏のクラスだったのだが、H氏と入れ替わる形で、被告のクラスに入れられたと言っていました。

2 わいせつ行為と学校生活について

⑴ 被告のわいせつ行為が始まったのは中学1年の2学期からでした。股間を触られ、私が嫌がると被告はニヤニヤしながら余計触るようになってきました。

 次第に被告は私を夜遅くまで残すようになりました。

 完全下校時刻過ぎて数時間残される事も頻繁にありました(甲13号証)。

 その際に被告から保護者や管理職に報告がされることはありませんでした(甲12号証)。また、被告に車で学外に連れ出されることも頻繁にありました(甲14号証)。私自身については、

学校内で特段問題を抱えていたという証言はない

と知人と後輩が証言しています(甲11号証)。

 だんだん被告の行為はエスカレートしていき、

 中学1年の3学期のころにはキスをされたり、フェラチオをされたり、させられるようになっていきました。

 その回数は少なくても月に2回と言うものでした(甲11号証)。

 当時私は女性の交際相手がいたのですが、あまりのわいせつ行為のひどさに自殺を考えたこともありました(甲22号証)

⑵ 中学2年になり被告のクラスに配属されると被告のわいせつ行為はより一層ひどくなり、私に対してやりたい放題するようになりました。

 放課後空いている教室に呼び出してはカーテンを閉め、キスをしたり、フェラチオをさせたりするのも頻繁になりました。

 歯医者に行かないといけないので帰りたいと言ったら「俺の話と歯医者とどっちが大切なんだ」と言われ、平手打ちを何発もされたこともあります。

 あまりの過酷さに耐え兼ね、横浜の叔母の家に逃げたこともあります。

 すると、

これは恐怖以外の何物でもなく

「どこにも逃げる場所がない」

と言う恐怖を私に植え付けました。

⑶ 被告が私の下着を奪ったのは平成元年11月ごろです。被告はわいせつ行為を体育館でした後、昇降口で私に下着を脱ぐよう命じました。

そして、私の脱いだ下着にマッキーでカタカナでクリスと書き(関連事実4、甲17号証)「これでお前は俺の言いなりだ」と言いました。

 この時私は被告からこれで一生付きまとわれると思い絶望しました。

 今回返還を求めているのはこの時奪われた下着です。

⑷ その後、被告から同様のわいせつ行為が中学卒業時まで続きました。中学3年の1学期には精神的に追い込まれ学校を1週間程度休みました。その時は、母も精神的に参ってしまい、同級生のT氏の母親に相談していました(甲22号証)。

 困った母は私に

「英俊一緒に死ぬか」

と言ったことがあります。

 母もつらかったのだと思います。

 当時、母が夕方買い物に行った時、一人で寝ながら天井を見ていた時があります。その時「このまま死んでしまおうかな」と考えました。

「ここから飛び降りても死ぬのだろうか」

 そんな考えが頭をよぎりました。

 その時、偶然窓の外を通りかかった女子生徒の声が聞こえました。

 その声を聴いた時「この子は呑気だな、俺がこんなことをされているのも知らないんだろうな」と思い、自殺をその時はとどまりました。

 ただ、精神的に追い込まれた状態は続きました。

 K氏は私や母の気持ちを知らず、生徒を連れてマンションの下から大声で叫ばせるなどの行為を続けました(甲23号証)。

 学年主任のW氏が来たこともあります。

 自宅にいる限り逃げることができないと思い、今度は山奥でひっそりと死にたいと思うようになりました。

 そして、土曜日の朝9時に自宅を出て長野に向かいました。場所は特に理由がなく山奥で一人で死ねれば程度に思っていました。

 初めての土地で地図もなかったので、着いた場所がどこか覚えていません。昼過ぎに人気のない駅につきました。

「自然が多くてここならいいな」と思い、あちこちをうろうろしていました。

 この時幸運だったのが、いくら人気がないと言っても昼なので誰かの目につくと言うことでした。

 また、私が蛇嫌いなのも幸いしてました。

 あまり奥に行くと蛇が出ると思い奥に行くことができませんでした。

 ある意味土地勘がないのが幸いしたのだと思います。

 暗くなるまで何とかしようと思い駅前に戻りました。

 夕方の4時くらいだと思います。

 その時、駅前の八百屋から当時はやっていた米米CLUBの曲が流れてきました。

 有線放送だと思います。その時、「不思議だな東京で流れている音楽が長野でも同じ時間に流れているんだ」とふと思いました。

 そのことにより少し気が軽くなったのだと思います。

 そして「帰ろう」と思い自宅に帰ることにしました。

 しかし、片道程度の電車賃しかなかったので、鉄道警察に捕まり母はすぐに上野に電車賃を払いに来ました。

 本気で自殺する気がなかったと言われるかもしれませんが、当時は本当に精神的に衰弱していました。

 ⑷ 当時はクラスメイトも私のことを心配してくれました。K氏は心配して夜9時くらいにゲームと漫画を届けてくれました。

 F氏も自宅に来てくれたことがあります。

 体育のI氏も普段は私と疎遠なのですが、この時は電話をくださり「選択体育の授業だけでもこれませんか。僕が守ります」と言ってくださりました。 

 ⑸ しかし、被告のわいせつ行為が終わることはありませんでした。

 結局人生を失いたくない私は学校に戻りました。

 すると、戻ったその日から被告は私を遅くまで残しわいせつ行為をしました。

 修学旅行の時にはバスでは隣に座らせ、かばんを股間の上に置くよう命じ、その下から股間を触り続けました。

 私たちが浴場に入っているときには、何故か一緒に入ると言い、裸になり浴場に入ってきました。

 当時心配したI氏が浴場を見に来たのを覚えています。

 私たちが寝室で寝ていると、朝被告は生徒に部屋の鍵を開けるよう命じ、室内に入り私の布団に潜り込み股間を触ってきました。

 私は嫌がっていたのですが、被告はかなりの時間股間を触り続けました。

 どんなことがあっても何があってもわいせつ行為をやめないと言う被告の性格は私にとっては恐怖でしかありませんでした。

 ⑹ 私は卒業するまで被告に何度もわいせつ行為をやめるよう何度も懇願しましたが被告は決してやめることはなかったです。

 私が中学時代考えていたのは、1学期だけでも1月だけ、1日だけでも他の生徒のように普通の学生生活を送りたいと言うことでした。

 しかし、それがかなうことはありませんでした。

3  私は平成29年11月に、被告のわいせつ行為について市教委に具体的に報告し調査を依頼しました(甲22号証)。

4  次に、私は下着の返還を求め被告に平成30年4月1日に手紙を出したのですが、被告から返信してきたメールには平成30年4月4日に下着の所持を認めたメールがありました(原文ママ)。

 しかしその際被告は下着の返還を拒みつづけました(甲2号証)。

5 さらに、平成30年12月3日には被告に対し、下着の所持の説明とわいせつ行為の内容などを記載したメールを送りました(甲19号証)が、その時にはなんら説明がありませんでした(甲20号証)。

 そして、その後被告は私のメールをブロックし一切の返答を拒否しました。

 その後も数度にわたり、異なるアドレスからメールや手紙で被告に対し自身の行ったわいせつ行為に対し説明及び下着の返還を求めましたが、被告からは一切返答がありませんでした(甲17号証、甲24号証、甲25号証)。

4 今回訴訟を提起した理由は関連事実9に記載のとおり、ある程度証拠がそろい、下着の返還を求めることが可能な状況になったためです。

5 被告が下着を所持した経緯が、下着が私に脱がせ奪ったものであること、および、被告 自身がマッキーで下着の名前にクリスとカタカナで名前を書いたことからすると、被告が下着を所持したのは、私の口を封じる目的だけではなく、将来それを用いて私を脅すつもりだったのだ思います。

 そして、かかる目的で所持した下着を長期間返還せず保持する理由は存在しません。

 漫画などを他人に借りておいて、返却を求められたとき「親が捨てた」などと言っておきながら、実際所持していたという例は非常に多いです。

 このようなことからも「燃やしたため「ない」」という被告の供述を信じることはできません。

 被告は下着を「燃やしたため「ない」」と言っていますが、現在も所持しているはずです。

 私は現在精神安定剤を毎日服用しており、訴訟の際も必ず服用しております。

 睡眠薬を常用しており、睡眠薬なしに寝ることができない毎日です。

 私が精神的に安定して、社会生活を営むには、下着の返還が必要です。

 下着の返還がなければいつ私や家族の名誉が棄損されるかわからず、不安で仕方がありません。被告には 速やかに下着を返還していただきたいと思います。

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