警固公園に集まる若者たちの記事を読んで

福岡市の警固公園に集まる若者たちの実態を朝日新聞デジタルが報じています。

https://digital.asahi.com/articles/ASSD54DK5SD5TIPE01BM.html?iref=comtop_7_07

大麻の使用、特殊詐欺の「かけ子」、家出や居場所の喪失——社会の規範から外れた行動が並びます。

残念なことに、彼らのすべてを私は理解できません。

しかし、この記事を読んで、私はとても他人事とは思えなかった。

この記事では、警固公園の若者たちに向けられる視線と、私自身の過去の体験を重ねながら、社会が「加害者」と見る人間の背景にあるものについて考えてみたいと思います。

目次

■ 批判されるべき行動と、そこにある背景

記事には登場する16歳の赤髪の少年。公園での大麻使用、特殊詐欺の「かけ子」の経験、そして現在も家出中であることが紹介されていた。

当然ですが、彼の行動は褒められたものではありません。

詐欺には被害者がいます。

大切なお金や個人情報を奪われ、心に傷を負う高齢者も多いです。

犯罪を許すべきではないし、被害者の立場を想えば、加害者を「可哀想」と済ませるわけにはいかない——そう思うのが一般的な感覚だと思います。

■ しかし、私は「他人事」とは思えなかった

過酷だった中学時代の性被害

ただ、この記事を読みながら、私はふと、自分の中学時代を思い出していていました。

私は中学時代担任で部活の顧問から性被害に遭いました。

加害教諭は私を自分の言いなりにするために、ありとあらゆる誹謗中傷を2年半の間続けました。

「お前は俺がいないと何も出来ない」「俺がいないとお前はいじめられる」「お前は学校で一番問題のある生徒だ」。

これらの言葉を何度となく聞かされた私は、自分に対する自信をなくし、周囲から嫌がらせをされても「問題があるから仕方ない」と思うようになってきました。

卒業しても持ち続けた複雑な感情

地獄の中学時代を卒業して、高校に進学した時、楽しそうな同級生を見た時感じたのは「なぜ俺だけがこんな目に遭うんだ」ということでした。

誰かが何かを渡しに言ったわけではありません。ただ、私は自身が中学時代に体験した性被害を、自分自身の中で処理することが出来ず、この複雑な感情を長い間持ち続けることになります。

私は一浪して関東の私立大学に合格するのですが、そこには居場所がありませんでした。

大学が悪かったわけではありません。皆いい人たちだったし、居心地も良かったです。

しかし、中学時代に性被害に遭った地元に当時まだ住んでいた私は、当時の屈辱的かつ複雑な感情を処理することが出来ませんでした。

私が自分の居場所を見つけるために選んだのは、偏差値のかなり低い関西の大学に行くことでした。

関西に行ったら居場所が遭ったかというと複雑です。

大学時代のそれほど人付き合いをしていたわけではありません。

ただ、加害教諭を始めとする教師たちや、中学時代の同級生たちと顔を合わせなくてよかったということは、私にとってはほんの少しだけ救いでした。

「犯罪でも犯したほうが…」

これでハッピーエンドといけば良いのですが、人間というのは難しいものです。

たとえ転居したと言っても失われた自身は戻ってきませんし、人間関係についての恐怖というのも、なかなか消え去ることはありませんでした。

一方で、悩む私を尻目に、加害教諭は自分のしたことに対する罪悪感を感じることなく、ずっと教師を続けていました。

高校も中退し、自分のやりたいことを全く出来ず、苦しい思いをしている自分がいる一方、学校内で性犯罪を始めとする犯罪行為をやりたい放題だった人物は、人生を謳歌しているという矛盾、これをうまく処理することは当時の私には難しかったです。

当時私は「悪いことをしたほうが得なのでは」と思ったことがあります。

そして、「どうせなら犯罪でも犯してやろうか」とも思っていました。

もしその時、私が一線を越えていたらどうなっていたでしょうか?

記事になっていたのは彼らではなく、私かもしれません。

そう考えると、私が彼らと全く異なる人間だとまでは言うことが出来ないです。

■ 人間は環境次第で「加害者」にも「被害者」にもなりうる

人間は、ふとしたきっかけで道を外します。

中学時代出会った、たった一人の異常な人物のせいで、私はあと一歩で道を踏み外すところでした。

もし加害教諭と出会っていなければ、全く違う人生だったと思います。

そう考えると、誰と出会うかということは極めて大事なことです。

私は中学時代信じがたい事件に遭遇しましたが、運良く、大きく道を踏み外すことなく生きてこられました。

でもそれは、自分の「努力」や「正しさ」ではなく、単なる「偶然」でしかありません。

もし、記事に出ている彼らが、自分にいい影響を与える誰かに出会っていたら、人生は変わっていたかもしれないと思います。

■ 社会がすべきことは「責める」よりも「支える」仕組み作り

警固公園の若者たちのように、「社会的に失うものがない状態」にいる人を「無敵の人」と呼ぶ。

時に「無敵の人」は、失うものがないことから大きく一線を越えて、恐ろしい事件を起こします。

そのため、彼らを恐れる人は多いです。

もっとも、彼らの中には、機会さえ与えれば立ち直る人間もいます。

ただ、彼らに対する支援というものを故人が行うことは極めて困難なことです。

やはり、そういったことは、行政が動かなければいけないのだと思います。

私は自分が被害にあったので、常に「加害者を支える仕組みを」というつもりはありません。

まず救われるべきは被害者であり、加害者への支援は、加害者が自分のしたことを真摯に悔いてからだと思っています。

ただ、自分のしたことと向き合う機会を与えることは必要です。

被害者の救済と反省した加害者の再教育は両方とも必要だと思います。

人は出会いで変わることもある:高校時代の体験より

加害者について何かを書く時、私はいつも複雑な気持ちになります。

自分自身が被害にあったことや、自分のしたことを全く反省しない加害者、そして、自分たちが加害者の行為に加担していながら、それを反省せず、あわよくば美味しい思いをしようと手ぐすね引いて待っている周囲の人間を知っているからです。

世間でそれほど嫌な人間と出会うことはありません。

ただ、時折他人を利用していい思いをしようとする嫌な人や、ことさらこちらに圧力をかけマウントをトロ嘘する人間には出会うことがあります。

それになんの意味があるのか私にはわからないですが…。

問題を起こす人間はごく一部ですが、他人に対してマウントを取ったり、美味しい思いをしようと手ぐすね引くような品源もごく一部です。

ただ、難しいのはその一部が誰かわからないんですよね。だから私は警戒心を緩めることが出来ない。

私は中学生の時までは、「スポーツをする時に殴られたりするのは仕方がない」と思っていました。

しかし、高校時代のバレー部の顧問が全く体罰をしない人物であったため「スポーツをするのに暴力は不要だ」と思うようになりました。

いい出会いがあれば、人は考え方が変わるときがあります。

もしかしたら、彼らも誰かと出会えばなにかが変わるのかもしれません…。

いつもながらまとまりがないですが、失礼いたします。

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