裁判をする意味 〜真実はどこまで明らかになるのか〜

裁判と聞くと、多くの人は「真実を明らかにする場」だと思うかもしれません。

確かに、裁判では証拠や証言をもとに事実関係が整理され、判決が下されます。

しかし、実際に裁判で明らかになるのは、事件のごく一部にすぎません。

目次

裁判で明らかになること、ならないこと

私は、中学時代担任で部活の顧問から性被害に遭いましたが、この件で2022年4月に裁判を起こし、勝訴しました。

しかし、その過程で明らかになったのは、加害者の一部の行為だけでした。

たとえば、中学時代の出来事。私以外にも問題のある生徒がいたにもかかわらず、「栗栖が残されれば、自分たちは叱られずに済む」と考えた生徒たちの行為や、「あいつ一人くらいなら、少しくらい被害に遭っても問題ない」「あいつの成績が下がれば、言いなりにできる」と、加害行為を容認した生徒たちの行為は明らかになっていません。

また、私に対して日常的に「ぶっ殺すぞ」「死にてえのか」と脅して楽しんでいたクラスの数人の男女の行為も、残念ながら明らかにはなりませんでした。

私が被害の相談をしたとき「○○先生っていい先生だってみんな言っているよ」「少しくらい我慢しなよ」と言った生徒もいますが、これも明らかになっていません。

まあ、訴状に書いたのは加害教諭の行為だけなので、ある意味当たり前ですが…。

一方で、残念なことに、「栗栖は何も悪くないよ」と言ってくれた、他のクラスの生徒たちの存在も裁判では触れられることもありませんでした。

つまり、裁判という場では、事件の全貌ではなく、核心部分の一部だけが扱われるのです。

それでも裁判をする意味

裁判を通じて得られる効果

では、裁判をすることに意味はないのでしょうか?

実は、そうではありません。

たとえ核心部分の一部しか明らかにならなくても、それによって以降の被害を防ぐことができます。

模試中学時代のクラスメイトなどが「栗栖君、気がつかなくてごめんね」などと平然と言ってきて、私を利用しようなどとした場合は、「クラスの中に他に問題を起こした生徒がいたのになぜなにも気が付かなかったの?」「女子生徒の胸やおしりを日常的に触っている生徒もいたんだけど?」などと聞けばいいわけです。

もし悪質な場合は、警察に通報することもできます。

私は学校にいた生徒全てに敵意を持っているわけではないですが、クラスの生徒を中心とする一部の生徒に対しては、絶対に許す気はありません。

人間は自分の生きたいように生きる権利があります。

裁判に勝つまでは、証言を集める必要などがあり、どれだけ嫌でも彼らと付き合う必要がありました。

しかし、勝訴したことにより、彼らと無理をして付き合う必要がなくなりました。

彼らを私の人生から追放できただけでも、裁判をやった意味はあると思います。

裁判に勝訴したことによる変化とその意義

そして、何より一番よかったのは、私自身の体調が回復してきたことです。

これにより、様々なことに対して前向きに取り組めるようになってきました。

裁判の結果がすべてを変えるわけではなくても、ほんの一部の変化が、被害を受けた人にとっては人生を変えるきっかけになることもあります。

その意味では、裁判をすることには十分な価値があるのです。

裁判を考えている人へ

もし、私と同じように裁判を考えている人がいるなら、ぜひ次のことを意識してほしいと思います。

  • 「自分にとって一番大事なことは何か?」
  • 「裁判で何を認めてもらいたいのか?」

これをしっかりと考え、戦略を練ることで、裁判が単なる苦しい闘いではなく、自分の人生を変えるきっかけになるかもしれません。

裁判は、すべての真実を明らかにするものではありません。

それでも、その先に、少しでも未来を変える力があるのなら、私は戦う意味があると思います。

  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次